11年半住んだ部屋から引越しをした。
新しい部屋にきてから2週間経ったものの、まだ片付いていない。
部屋が広くなった。広さを持てあましている。
生活を少し変えたいと思って、10件ほど下見をして選んだ部屋だ。
前の部屋のままでも良かったかもしれないと思ってめげそうになる。
11年半住んだ木町の部屋は、六畳一間ユニットバス、
台所は狭く、よく食器を落とした。
となりは廃業した銭湯、ななめ向かいには小学校があり、
平日は毎朝7時半に「いってきます」という声が聞こえる。
日中は学校の音と近所の大学病院に着陸するヘリコプターの音くらいで静かだ。
寝食同室でも、友人が泊まって、乳児もウサギもあずかった部屋。
私の引越し回数は少ない。
大学入学時の山形、山形から実家へ、実家から仙台へ越した3回。
どれも父が運転する農業用トラックでの引越しで、両親に手伝ってもらった。
両親はどちらも一人暮らしをしたことがない。
ものを持たないように収納付きの部屋にした。
ものをなるべく持たないように、
テレビは持たずに、お米は鍋で炊く。
家具は必要最低限にして住み始めた。
2011年3月。小鶴新田に住んでいた妹の部屋を引き払うことになった。
彼女は病気の祖父の様子を見に帰省したときに津波にのまれた。
彼女とは津波から一週間後に安置所で再会した。
どうあっても、日々はぜんぜん進んで、
3月中に、あと10日後には、部屋を出なくてはならなくなった。
不動産屋は容赦なく、大家さんは気の毒そうに合い鍵を貸してくれた。
3月11日から約2週間後、そのままになっていた部屋を開ける。
地盤がゆるい場所性もあり、棚から落ちた物で床がうめつくされ、
倒れた冷蔵庫から顔を出した大根からは花が咲いていた。
一緒に探してくれていた彼女の友人が
「来週、部屋でカレーパーティーをする約束をしていたのに」
と言っていたことを思い出した。
彼女の最初で最後の一人暮らしの部屋。
彼女はデザイン事務所に勤めている間に、カフェへの関心が高じて、
育成制度を持ったコーヒーショップに転職した。
私が実家から木町に行く前に、彼女は一人暮らしを始めた。
電化製品は私が山形で使っていたもので「おさがりでも良い」と言った。
それ以外は彼女の領域で、カフェの設えのような木製の変わった飾り棚や
青いテーブル、皮のソファで構成されていた。
彼女の職場の上司が、部屋を急いで引き払うことになった話を聞いて、
片付けの手伝いや細かな荷物の搬出に車を出してくれた。
最後の大がかりな引越しは、当時一緒に仕事をしていた方々にお世話になった。
彼女がこだわった家具、集めた本、好きな服、
写真のアルバム(彼女は友人が多く、写真がたくさんあった)は
彼女に断りもなく捨てることができず、
ほとんどを自分の部屋に引き上げた。
それからずっと、彼女のものと同居していた。
ものと私の二人生活中、9年の間に少しずつ手放した。
ベッドを解体し、細かなものは捨て、
彼女が大事にしていただろう数々の洋服は同じ背丈の女性たちに渡した。
(けれども大事に着てくれそうな人に渡せば良かった)
今回の引越しで、彼女のテレビ台を捨てた。
木製で、飾りガラスの引き出しがついた白いテレビ台だ。とても重い。
エレベーターがないアパートの4階から階段でずるずる降ろし、「ごめんね」と思う。
私だけ残ってごめんね。
あの日、家に行かなくてごめんね。
生活をしていてごめんね。
と思う。
新しい部屋は妹の家具が合う。
黄色の台所。焦げ茶色の床。広さにめげそうになる。
ものを持ちたくなくて、部屋が片付かない。
2020年5月25日
2021年編
2020年5月25日月曜日
彼女と私の引越し
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